12月の「歴史を楽しむ会」は鎌倉時代の話でした。特に印象深かった「静御前の舞」話を書きます。少し長くなりますが、ご容赦願います。

鎌倉幕府(1192年)は日本最初の武家政権で源頼朝(みなもとのよりとも)が鎌倉に開きます。その直前にあった内部の争乱が、義経(よしつね)追討です。実の弟で平家追放に功績があり、美男子で都でも大人気であった義経に兄の頼朝は討伐の命を出します。義経たちは敗走し、わずか数名になって冬の吉野山中にたどりつきます。そこで御山の入り口にある「女人禁制」の立て札を見た義経は、同行していた妻の静御前(しずかごぜん)に帰るよう諭します。仕方なく別れた静御前は頼朝の追っ手につかまり、鎌倉に幽閉されます。

翌年の春、頼朝に鶴岡八幡宮の花見の宴で御家人たち(義経の敵)の前で舞を披露するよう命じられます。その訳は彼女は絶世の美女といわれ、その舞は後白河法皇から「都一」のお墨付きもいただいたほどの名手だったからで、彼女の断わりもきかず、とうとうその日を迎えます。

時は春、桜満開の境内で居並ぶ敵の武人たちを前にして、静御前はただ一人覚悟を決めて舞い始めます(静御前の日本画参照)。何を舞うのか世間でも注目の中、なんと彼女は眼前の敵将頼朝に媚びず義経を想い慕う歌を舞ったのでした。

「しずやしず、しずの苧環(おだまき)繰り返し、むかしを今になすよしもがな。吉野山嶺(みね)の白雪ふみわけて、入りにし人の跡ぞ恋しき」 直訳すると、「しずやしず(彼女の愛称)お前は苧環(おだまき)の花のようだねと繰り返し言ってくれた、そんな昔にもどりたい。吉野山で真っ白な雪の中、私を残して行ってしまったあの方の、あの足跡が恋しく思えます」。その歌もさることながら、その舞いの見事さに敵の武人たちは、咳ひとつできずシーンと静まりかえっていたそうです。

その後、この歌の咎めを受けて静御前は不幸な人生になりますが、この敵将に媚びず命を懸けた愛の歌と舞いは、時を経て今なお語り続けられています。おだまきの花を見て下さい。こんな女性がいるのかと、男性なら憧れてしまいますよね。次の桜が咲いたら、私は必ず鎌倉の八幡さまに行き、この八百年前の心打つ物語を思い描いてみたいと思っています。(艫居大輔)

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