「明神二の池」(荒木利郎氏所蔵)

また上高地に来ていました。

上高地の自然に包まれていると、生まれ育った静岡の田舎で育まれた感性、魂が蘇り、癒しと活力が生まれます。

子供の頃より道を求め生活する中で、佛様、神様、山川草木、自然の営みそのものが友達であり、心を導く師になっていました。

今、描く絵は子供から青年、壮年を経て培われた魂、感性が現在の私自身そのものと自覚しています。故に、私にとって絵を描くという事は、この想いを表す術なのです。

梓川の清流にかかる河童橋を渡り、川を右手に眺めながら緑の林の中を歩く。

樹々の間を抜ける爽やかな風に思わず両手を広げて胸いっぱい呼吸する。右から左から、足元に小さな清流を見ながら一時間ほど歩くと明神池に到着。

明神池は穂高神社奥宮の境内にあり、一之池、二之池からなる。(遊歩道沿いには三之池もある)明神池は明神岳(2931m)からの湧水が溜まって出来た池で、常に伏流水がが湧き出ている為、冬でも凍結はしないという。その水面には明神岳の南峰を映し、イワナやマガモが泳いでいるのを見ることができる。朝6時になると、大きな太鼓の音が深い靄の中に響く。ドーン、ドーン、と大きな太鼓の音はだんだん小さくなり消えてゆく……。

それが数回繰り返される。後で神主から聞いたところによると、竜神が天に昇ってゆく様子を感じながら太鼓を打つということである。

そして明神岳に降臨された御祭神、穂高見命(ほたかみのみこと)に祝詞(のりと)が奏上される。深い靄(もや)の景色とともに参拝が終わると、より一層身がしまり清められた気持ちになる。

この絵は明神池の二之池である。

初め靄の中から朝陽を浴びた明神岳の山頂付近が顔を出し始める。

そのすぐ直下にはいまだ濃い靄が立ち込めている。時間の経過とともに靄で何も見えなかった目の前の水面に、大小の岩群が一つづつ姿を現す。

岩の大小、その形、絶妙な配置の見事さに心を奪われる。刻々と変わる景色。その神秘的な演出に酔いしれる。すべてが自然で、水も樹々も岩も、明神岳さえも柔らかく優しく温もりさえ感じられ、私の心の奥深くに感動を与えてくれる。

私はただ静かに自分を忘れ、時を忘れる。

……この絵はそんな感覚の中で描いた作である。

平凡な自然の風景でもその中に充実した命ある、意思のあるものとして映り強い感動を受けます。山で野で川で、自然と自己との繋がりを知って充足感に目覚めました。そこに自然と切実で純粋な祈りの心が生まれます。

近年、急速に進む現代社会の中で、私自身時代遅れの道を歩んでいると思うことが多々ありましたが、今は自然を前にしてそれで良かったと思っています。人はもっと謙虚に自然、風景を見つめても良いのではと考えています。

一本の枝、一枚の葉でも心を込めて眺めれば、生きている意義を教えて貰えると。

そしてもっともっと自然から学び描いていきたいと思っています。(田邊昭)