日本とネパールの関係は明治時代から僧侶や留学生の行き来があり、また日本のボランティアの人々が現地に学校を建てたり、現地の生活の向上に貢献しきたこと、そして前回紹介した宮原氏のようにネパールの観光に力をつくしたりしたこと。また、登山家の三浦雄一郎氏は親子3代にわたり登山の拠点とされたこと。こうした人々のおかげで私たちも好意をもって迎えられている事を知りました。

ルクラからナムチェバザールまでは急坂や不揃いな階段、崖と谷をぬう様に造られた細い道を歩く。

大きな荷物を背負った人々、荷物を運ぶヤクやロバの群を誘導する村人の声のみが谷に響く。ヤクやロバは従順で、毎日重い荷物を背負って黙々と狭い悪路を歩いてゆく姿に頭が下がる。

崖に身を寄せヤク達に道を譲る時、ヤクの角が胸に触れるほど近くを通ることもある。ガイドに聞くとヤクやロバが足を滑らせ谷に落ちる事もあるそうである。実際、私たちの目の前でヤクが後ろ脚を踏み外して落ちそうになり、しばらく動けなくなってしまった時はヒヤリとした。道の途中には腰の高さのあたりに石の台があり、荷物を運ぶ村人が立ったまま荷物を置いて休めるようになっている。所々には仏塔や小さな祠(ほこら)があり、人々の安全を願っている。

また、ルンタという経文が書かれた五色の祈祷旗が村のあちこちに掛けられ、風景に溶け込んでいる。マニ車、マニ石(岩)、幟(のぼり)旗(タルチョ)は左回りで歩かなければならないと決められていて、いたずら盛りの子供でもちゃんとそれを守っている。街道はそんな祈る心に溢れている。

深い谷にはつり橋がかけられ、幾つものつり橋を渡って行くが、とりわけ最後の大きなつり橋は目がくらむ高さである。橋の両側にはルンタが幾重にもたなびき、細く長いつり橋は途中で波打っている。所々に床板が壊れて修理した跡がある。息を殺して、意を決して無我となって渡る。途中ではとても谷の下を見る余裕などない。

しかし、このつり橋をヤクやロバは隊列を組んで渡っていくのだから驚きである。五色のルンタはヒマラヤの風に舞ってつり橋を通る人々や家畜を守っている。そのつり橋を描いたのが今回の絵である。上下2本のつり橋がかかっているが、下のつり橋は壊れて使えなくなり、新しく上にかけた方を渡ったのである。ここは標高3000mを超えており、谷底にはイムジャ湖(氷河湖)から流れ出たトドコシ川が流れている。

現地の人々の生活路でもあるこの街道は世界中からの登山客も大勢来る。行きかう人々は皆、地元の言葉「ナマステ!」(こんにちは)と笑顔で挨拶する。そんな道の先にある一番大きな村、ナムチェバザールでは週に一度バザーが開かれる。そこでは日用品から肉や野菜、果物まで一通り揃うが、ここまでの道のりを思うとどれも貴重品のように思われてくる。

現地の人々は子供まで良く働き親の仕事の手助けをする。女性は家事一切を仕切り、家の中は隅々まできれいに清掃され、鍋などは金製品かと思うほど輝きを放っていた。男性は狭い畑を耕すだけでなく、14才ぐらいになると登山ガイドの見習いとして働く者もいて17才からは家計を支える為、100キロ近くの重い荷物を背負い険しい山道を登り下りしている。荷物の重さに耐える為に、中には歯が欠けたり抜けたりする人もいる。その厳しさ、苦しさを乗り越え大自然と共に生きていく姿は、深い信仰と祈りによって支えられているのであろう。

毎日、朝夕の祈りを欠かさずロッジの中には祭壇があり、お線香の煙が漂っている。大自然を前にどんな状況でも動じることなく全てを受容し感謝する。人には深い優しさをもって迎えてくれる。ナマステ、ありがとうの言葉で会話し、合掌する。ネパールに入ってから帰路に着くまで常に暖かく、親しみをもって接して頂き、心豊かに旅を終えることができました。合掌。(田邊昭)